太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

僕らは殆んど友達になれない幻視人

幻視人の午後

 寒い。ミノムシのまま冷たい太陽の軌道を想像する午後。本当に動いているのは地球であり、そこに貼り付けられた僕だ。2月も中旬になると忌まわしい花粉が飛び始める。寒くて何もできない事、花粉で何もできない事。不快感の度合いを比較すれば前者のが幾分かはマシであるけれど、殆んど動けなくなる状況には変わりがない。

 「動けなくなる時の自分」を想像していれば、「動ける時の自分」がそれに対応できるように用意しておくのはごく自然な話だ。それは何も物理的に同一の人物に限る必要はない。「ありえた自分の幽霊」の行き先が気になる幻視人。隘路に至るアイロニーの多態性。胡蝶の夢のバッドエンドの後日談。

狂気の共起に狂喜する

 理性と取引き。直感的な共感覚を得ても、少し溜めて第二波を待つ事。直感を直感のまま表現しても、偶には当たるかもしれないけれど再現性はない。自信がないまま及び腰の表現を進めても行ける場所は限られている。例えば、村上春樹は『1973年のピンボール (講談社文庫)』において感覚だけで書き続ける事に限界を感じて『羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)』を書くまでの間に飲食店との兼業を辞めたり、小説技法と向き合ったりしている。これはもちろん「才能」ありきの話だ。そもそも凡人は感覚のままだけで何かを表現しても完成させる事すらできず、文体しかないという話に行き着く。

「考え方が違うから闘うんでしょ?」と208が追求した 。
「そうとも言える」
「二つの対立した考え方があるってわけね?」と208。
「そうだ。でもね、世の中には百二十万くらいの対立する考え方があるんだ。いや、もっと沢山かもしれない」
「殆んど誰とも友達になんかなれないってこと?」と209。
「多分ね」と僕。「殆んど誰とも友達になんかなれない」

1973年のピンボール (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)

 その分野の大抵の事について最終的に正解を選ぶ事ができるが、それを思考するのにも、表現するのにも多くのエネルギーが必要となるという段階に安住すると、適当にやれば大体は正解を選べてしまう人や、当てずっぽうでも3倍量試行できる人に結果として多くのパイを取られていく。負担は分不相応な期待になり、期待は呪いとなる。結果を維持し続けるには投下するエネルギー量を低くする必要がある。ガスで風呂を沸かさないこと。それとも維持し続けようなんて夢は最初から諦観しておくこと。眼前の幻視人に対する理解は殆んど真実ではないけれど、だからこそ問わずに、語らずに、分かり合ったフリをし合えなければ壊れてしまう。どこにだって行けない道ぐらいなければ、僕らはすれ違うことすらできないのだから。

VISIONNERZ~幻視人~

VISIONNERZ~幻視人~

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