太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

『風の歌を聴け』再々読〜「風の歌」とは何か?

『風の歌を聴け』再々読

 『風の歌を聴け (講談社文庫)』を15年ぶりに再読したのはちょうど1年前。決してハルキストとは言えなかった僕は「はしか」に掛かったかのように読み直していって、パロディらしきものも書いている。本日は『風の歌を聴け (講談社文庫)』を題材にしたSkype読書会である。

 それでも、僕が高校生の頃から圧倒的に好きだったのは続編の『1973年のピンボール (講談社文庫)』であり、『風の歌を聴け (講談社文庫)』の印象は正直なことを言えば薄かった。評価が逆転したのは良くも悪くも「これはミステリー小説である」という読み方をいくつかの評論文から提示されてからである。「分かっていない側」に居たのだ。

完璧な読解などといったものは存在しない

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

 あまりに有名な書き出しの文。文章を書くことは絶望である一方で、「完璧な絶望がない=少しの希望はある」ことも提示される。

僕たちが認識しようと努めるものと、実際に認識するものの間には深い淵が横たわっている。どんな長いものさしをもってしてもその深さを測りきることはできない。

 完璧な読解などといったものは存在しない。完璧な希望が存在しないようにね。文章を書くことも、文章を読む事も他人との距離を明らかにする行為である。明文化された差異を根拠に「語りえぬ事=クオリア」の距離を想像して絶望する。

伝達すべきことが失くなった時、文明は終る

 文明とは伝達である。表現し、伝達すべきことが失くなった時、文明は終る。

 それでも完璧に正しく伝達されてしまえば、伝達すべきことが失くなって、文明は終わる。だから「本当の事」を隠しながら書いて、それでいて「本当の事」はここにあるよというメタメッセージを伝えようとする。殺人の理由として「太陽がまぶしかったから」と言うのも、ありきたりの理由を押し付けられるのではなく「本当の理由」をちゃんと考えてほしいからである。

 恋がはじまるのはいつだって「あなたの事をもっと知りたい」という欲望からであり、恋がおわるのはいつだって「あなたの事はもう分かった」である。完璧な殺人事件は死体が発見されない事で達成できるが、死体が発見されなければ事件を解決するための欲望を維持できない。「まだ伝達すべきことが残っている」という共同幻想を維持し続ける必要があるのだ。いくつかの論点について、つらつらと書いていこう。

「ジョン・F・ケネディ」というミームの伝達

 コレ自体は複数の評論からネタバレされてしまっているのだけど、僕・鼠・小指のない女の子をつなぐ単語である。鼠が女性に言って、女性が僕に言った。つまり、別々の人物のように書かれていた「女性」が同一人物だったという読み方が確定的であろう。

 僕らは一緒にいる機会が多い人の単語や口調に影響をうけてしまう事を知っている。だから期せずして同じ口癖や話を二人から聴いたという事実から奇妙な嫉妬や疎外感を感じてしまう事がある。既にミームの伝達によって文明が出来つつあることを察知することもあれば、それが綻びつつあることまで知ってしまう事がある。

 この物語は29歳の「僕」が21歳の頃を思い出して書いているという設定になっている。8年経てば俯瞰して見られる部分もあれば、だからこそ改竄した記憶や自己合理化もある。その気持ちは彼女に会う前には必ずシャワーを浴びていたという記述の断片にだけ顕れているのではないか。

嘘をつくと宣言してからの文章の信頼性

 僕は時折嘘をつく。
 最後に嘘をついたのは去年のことだ。

 この「去年」というのは1969年の自殺した彼女に対しての嘘であるが、1970年においても平気で嘘をついている記述がある。

 (もちろん殺したりはしない、と僕は嘘をついた。主に心理面の実験なんだ、と。しかし本当のところ僕は二カ月の間に36匹もの大小の猫を殺した)

 つまり、この手記は嘘だらけであるという事を表している。「時折嘘をつく」の「時折」が次の文章にあたったのか、「時折」が嘘である場合のどちらであっても、「時折」は高頻度であることを意味する。これはミステリーにおける、「信頼できない語り手」であるが、嘘をつく法則があるのではないかと。ラジオDJのONとOFFのように。

「風の歌」とは何か?

 途中でディレク・ハートフィールドの「火星の井戸」という作品が引用される。ちなみにディレク・ハートフィールドは架空の作家で、故に「火星の井戸」も架空の作品である。

「私が? しゃべっているのは君さ。私は君の心にヒントを与えているだけだよ。」

(中略)

「急にじゃないよ。君が井戸を抜ける間に15億年という歳月が流れた。君たちの諺にあるように、光陰矢のごとしさ。君の抜けてきた井戸は時の歪みに沿って掘られているんだ。つまり我々は時の間を彷徨っているわけさ。宇宙の創生から死までをね。だから我々には生もなければ死もない。風だ。」
「ひとつ質問していいかい?」
「喜んで。」
「君は何を学んだ?」
 大気が微かに揺れ、風が笑った。そして再び永遠の静寂が火星の地表を被った。若者はポケットから拳銃を取り出し、銃口をこめかみにつけ、そっと引き金を引いた。

 「レイ・ブラッドベリ」の名前が本文中にも出てきているが、これは「霧笛」の話である。霧笛の音を仲間の声だと思い込んだ恐竜が訪問して、音の発信源が燈台だと分かった恐竜は暴れだす。つまり「風の歌」とはまさに「完璧には伝達される事のない文章」の事ではないか。風の歌が心に与えられたヒントを思い出させ、「距離が近付いていく」と思わせる過程にある限りにおいて文明は維持される。

完璧には伝わらないという希望

 「決して帰らぬ者の帰りをいつも待っているということ。愛されている以上にいつも何かを愛するということ。そしてしばらく経つとその愛する相手をほろぼしたくなる。ほろぼしてしまえば、自分が二度と傷つかなくてすむからな。」

太陽の黄金(きん)の林檎〔新装版〕 (ハヤカワ文庫SF)

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 つまり、僕らは「まだ伝達すべきことが残っている」という共同幻想があるかぎりにおいて、絶望から逃れられる。完璧に伝わってしまった場合にも、完璧に伝わらない事が分かってしまっても、文明は終わってしまう。「風の歌」を聴いて分かり合えるかもしれないという可能性への「試み」を維持し続ける限りにおいてのみ、僕らは絶望から逃れられるのである。

 完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。完璧な読解などといったものは存在しない。完璧な希望が存在しないようにね。だけど、完璧でないから発生する運動量には少しだけの希望がある。だから僕らは30年も前の作品を肴に語り合い、少しだけ距離が近づいていく幻想を維持しようとするのだ。

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)