太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

偏見のカケラを集めてカシャカシャと切り替えていきたい

photo by 917press

他人にどう見られているかはコントロールできない

 「自意識を見えないようにしているが隠し切れてない」と評価されることがある。そこまで隠してるつもりもないどころか自省のみのエントリすらある。しかし、当事者の「環世界」からみたらそうなのだろう。一方的な決別宣言があったので、矯正をされる機会もない。過去には「他人にどう思われている」までコントロールしたがったところもあるが、「その差」こそが面白くなってきている。

 マダニには温度と嗅覚と触覚しかないが故に素晴らしい世界がみえているのかもしれないし、犬は嗅覚が鋭いが故に腐臭に耐え切れないのかもしれない。人工的環世界は広い範囲で調整可能だからこそ、自分にとって一度最適だと思ったレンズを絶対視しやすい。それは悪いことではない。電車にはつり革が必要だ。

偏見のコレクションが好きだ

 ただ僕は「世界を眺めるレンズを増やしたい」という欲求が強い。統計的な事実だけでなく、「そう思っちゃったんだから仕方がない」という偏見のコレクションが好きだ。それらを持っていれば、どれだけ世界との物理的な関わり方が変わってもレンズをカシャカシャと切り替えていけば楽しいピントが合う可能性が増えると無邪気に信じている。同じレンズは気の抜けたハイボールのようにすぐに飽きる。

 客観的な指標を並べていけば大幅に成功した人生でも、大幅に失敗した人生でもない。上を見ればきりがないし、下を見てもきりがない。もちろん詐欺や事故や病気に遭う可能性もあるし、運命の出会いや竹やぶで1億円を拾うかもしれないけれど、まぁ平常運行していくのだろう。あとはレンズの良し悪ししかない。レンズを変えれば退屈しのぎになり、退屈しのぎはホーソン効果を呼ぶ。

クリスマス・イブ

 クリスマスイブ。特になにがあるというわけでもないが、昨夜の日本酒が残っているのでアテに唐揚げを買って帰る。今日は何羽の鶏が揚げられたのだろう。ケーキは彼女ができるまでお預けにしてみよう。かつての日本では茶断ち・塩断ちといった願掛けのために断ち物が一般的に行われていた。現代でも受験前のネット断ちやゲーム断ちなどは一般的な話だ。それ自体の効用と願掛けの両面から支えている。

 神や心霊に対する信仰心は欠片もないが、願掛けや占術などについては積極的に取り入れている部分はある。それは人間(≒僕自身)の持つボテンシャルと心理の関係を少々過剰に見積もっているからなのかもしれない。何かを断った状態のレンズをコレクションに加えられる楽しみである。それらは自己表現にあるのではなく、自己変革にある。エゴの拡大にではなく、縮小にある。分析にではなく、包括にある。

 しかし、それらが他人に応用できるものなのかは怜悧に判断すべきだ。その独立性を保てない人間の言説は大抵は正しくないのに「別の権力」を使って「正しい事」にしようとするから腐臭がする。レンズのコレクションに加えるのは良いが、それは「正しい」と見做しているからではない。そこの独立性を勘違いされても腐臭がする。本当に必要なレンズは家族を持った状態のことなのかもしれない――なんて事を思ったふりをしながら、冷めてしまった日本酒を煽る。「寂しい」というレンズから眺める世界をもう少し噛み締めよう。

高慢と偏見〔新装版〕 (河出文庫)

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