太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

「効率的な娯楽」としての歴史や宗教

愛のむきだし [DVD]

引き続き残るのは信仰、希望、愛、この三つ

 TSUTAYAで200円で借りてきた『愛のむきだし [DVD]』において満島ひかり演じるヨウコが海辺で叫んだ『コリント信徒への手紙』第13章について頭の中で回っています。まったく残念な事に、自分にとっては本物の説法よりも、よほど劇的な体験となっているという事なのでしょう。だから回心するといった話ではありませんが。

最高の道である愛。たとえ、人間の不思議な言葉、天使の不思議な言葉を話しても、愛がなければ私は鳴る銅鑼、響くシンバル。
たとえ、予言の賜物がありあらゆる神秘、あらゆる知識に通じていても、愛がなければ私は何物でもない。
たとえ、全財産を貧しい人に分け与え、たとえ、称賛を受ける為に自分の身を引き渡しても、愛がなければ私には何の益にもならない。
愛は寛容なもの、慈悲深いものは愛、愛は妬まず高ぶらず誇らない。
見苦しい振る舞いをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人の悪事を数えたてない。
愛は決して滅び去ることはない、予言の賜物なら廃りもしよう、不思議な言葉ならば止みもしよう、知識ならば無用となりもしよう、我々が知るのは一部分。
また予言するのも一部分である故に完全なものが到来するときには部分的なものは廃れさる。
私は幼い子供であった時、幼い子供のように語り、幼い子供のように考え、幼い子供のように思いを巡らした。
ただ、一人前の者になった時、幼い子供のことは止めにした。
我々が今見ているのは、ぼんやりと鏡に映っているもの 。
その時に見るのは顔と顔を合わせてのもの。
私が今知っているのは一部分。
その時には自分が既に完全に知られているように、私は完全に知るようになる。
だから引き続き残るのは信仰、希望、愛、この三つ。このうち最も優れているのは、愛。

シェアワールドとしての戦国時代

 ところで私は戦国時代についての逸話や考察を読むのが好きなのですが、二次創作的な小説であったり、『戦国BASARA HD Collection』のようなぶっ飛んだゲームについても寛容です。そもそも『システムソフト・アルファー 天下統一 -相剋の果て-バリューパックセレクション2000』や『「信長の野望」 30周年記念歴代タイトル全集』といったPC98のゲームから入ってきたという経緯もあります。

 コミットされた歴史的事実は変えずにそこに至るまでの道筋や解釈をアトラクタフィールドに収まる範囲で改変する作品が好みです。それは『うみねこのなく頃に散 〜真実と幻想の夜想曲〜(通常版)』で主題となった構造に似ています。つまり物理的な事実をねじ曲げずに「愛がなければ見えない魔法」を妄想する事です。

 そのような関連作品を読み進めるうちに各々の解釈や絵面がフィードバックし合った歪な像が出来上がります。歴史学的には完全に誤っているであろう俗説も信じてしまっており、正しくない姿である可能性も非常に高いのですが、拡張現実的な想起が起こってしまうのも仕方がありません。前田慶次は天下の傾奇者だったんや。

 歴史に関するものは正統、非正統によらず蓄積機会と活用機会が多いと言えます。色々な人が考え、独自解釈をし、それぞれの物語を紡いでいく、ひとつの巨大なシェアワールドなのだと感じることがあります。これは物理的な事実までは変え難い現代社会における訓練になっている側面もあります。つまり「げんじつ!」は今世紀最大のシェアワールドであり、ソーシャルゲームです。

大きな物語とシュミラクルの相互フィードバック

 『進撃の巨人(1) (少年マガジンKC)』は北欧神話ですし、『エヴァンゲリオン』に影響されて死海文書について、調べたりもしました。その一方で、『増補 虚構の時代の果て (ちくま学芸文庫)』などで指摘されているようにオウム真理教は宇宙戦艦ヤマトの要素を多分に含んでいたと言われています。

 体験のきっかけや正統性などをまったく無視した形で二次創作的に摂取しています。聖書についても『まどか☆マギカ』の名台詞と同じぐらいの感覚で摂取し、じゃあ聖書も読んでみるかとなる場合もあります。ただ、今後読む聖書において満島ひかりが想起されないという事もないでしょう。これは人間のキャラ化消費にも似ています。シュミラクルを作り出して、本体とは独立して消費する。

効率的な娯楽としての歴史や宗教

 ただし、解釈においての蓄積量は歴史や聖書の方が大きいという話はあります。聖書の関連知識を学べば宗教画の美術鑑賞についての知識を得ることもできるでしょう。その意味では一石タ鳥で「効率的な娯楽」なのかもしれません。解像度を高めるのは。同じ体験から多くの情報量を引き出すためと書きましたが、まさにそれが起こっているわけです。ノイズも増えていますが。「同じ行動量で出来るだけ大きなの効果を」みたいな事を娯楽にまで考えるのは病んでいるとも思いつつ、例えば家事が好きなのはそういう側面も多分にあるとは感じています。ある

 正直な事を言えば信仰も「効率的な娯楽」なのかもしれないと思うところがあります。判断の外部化について語る際に、完全に物理的な環境管理や即物的な利害関係だけで済ますというのも難しく、倫理や自己洗脳に頼る部分もないわけではありません。大澤真幸はカフカの『審判』における「掟の門」を例にあげ、門をくぐれないのは物理的にくぐれないだけではからではないと指摘しています。その一方で自分は積極的な無神論者でもあります。なので、この増田の主張に共感しました。

キリスト教が代表されるように宗教の利点は共同体を作り出す大きな力を持つことだ。パットナム『孤独なボウリング』に詳しいが、アメリカ社会は多分に宗教的な社会であり、アメリカの秩序や国民の社会参加は教会を通して維持されてきた。教会のような場所は他者への信頼を強めて協働させる機能を持っているのだろう。

そんなに言うのならキリスト教徒になればいいのではないのかとお思いかもしれないが、そうはいかない。

なぜなら自分の精神的な支柱は無神論にあるからである。高校生の頃、カミュ『ペスト』に触れて、神への信仰は災害や疫病などの不条理に対して無力であるどころかそれを恵みと呼ぶような危険性のあることに気づいたからである。いまもってしてこの本の影響力は大きく、時折目を通しては線を引くことを繰り返している。

私は神を信じたくない。いかなる宗教にも属したくない。それと同時に神の名のもとに作り出される教会という共同体に憧れを抱く。そうして自分が人との交流を本心から楽しむ社交的な人間へ変わることを願っている。むしのいい願いである。むしのいい願いはまず叶えられることはない。

 今のところはキリストを超えたと評判の前田敦子を信奉したりして、「安全な依存症」を複数作って負荷分散していくことで死ぬまでの暇つぶしをしていく事になるのだとは思いますが、結論はでていません。

前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48 (ちくま新書)

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