太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

なりたくもなかったギークにもオタクにもなれなかった悲しみに

photo by Julia Roy

ギークになれない

 今年の4月半ばから転職や転居をしてから、適当に忙しくて、適当に充実していて、適当に頽廃している。予測していた通りになったこともあれば、そうじゃないこともあるけど、色々なことが中途半端だからこその楽しさや不安が同居している。

1ヶ月半ぐらい前から、色々とやっていたのだけど、明朝から新しい仕事の会社員として働きつつ、業務時間外に受託しているライター業をしつつ、ワーキンググループなどにも参加予定となっている。まだまだ忙しさの度合いは見えていないのだけど、インターネット上の出来事に関わっていられる時間は少なくなるだろうし、少なくしなきゃいけないのだと思う。

 仕事内容も前職に近い「技術も分かる折衝役」に落ち着きつつあって、プロダクション環境のコードを書くような機会はついぞなかったなと。そこに全く不満はないし、適性的にも合っているのだけど、ギークになれなかったコンプレックスのようなものを今更ながらに感じたりもする。ギークになりたかったわけでもないに。

オタクにもなれなかった

 オタクにも同じような感覚を抱く。よくもまぁ色々なアニメを継続的に見続けていられるなとオタクになりたいわけでもないのに劣等感を感じてしまうというか。

ただ、それから後に放映されたアニメについてはそこまで好きなものが見つからず、惰性であったり、当時縁のあった人達が観ていたので、その話題のために観ていたという側面が増えていったのも嘘ではないです。それすら面倒になった現状というのが前述のつぶやきになります。漫画やラノベは読んでいる方だと思いますが、だからこそ原作付きアニメは初回放送の再現度確認ぐらいしか観る必然性を感じませんし、オリジナルアニメにしても毎週見続ける意志力を保つというのはなかなか難しい話です。

 漫画や映画は好きだけど、どちらかと言えば少ない作品の構成要素を延々と咀嚼しているタイプなので、摂取量としては本当に少なくて「まだアレもソレも観てないの!?」となることのが多い。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』も観てない映画好き(笑)みたいな。

「できなかった」と「したくなかった」の共犯性

 共通するのは「適性がない」ということだ。基本的に長時間の継続が苦手なので、延々とコードを書いていることも、アニメや映画を見続けていることもできない。なりたいわけじゃないのに、なれないから感じるコンプレックスは「なりたくなっても、なれない」という仮定の問題から発生する。

「何者」かにはなれていないし、それ自体は大した問題だとも感じてなかったのだけど、したい事をできない時に強烈に意識する事になる。「出来るからする」に安住し続けてるうちに「したいから出来るようにする」が抜け落ちていたなと改めて感じる。

 むしろ「したいこと」だと思い込もうとしていた諸々が自己欺瞞であることは多い。ギークやオタクになる必要性はどこにもないし、レールの外にいく必要もないし、デカダン作家にもナンパ師になる必要もない。

オタクはなろうと思ってなるもんじゃない、気づいたらなってるもんだからやめることもできない

げんしけん(1)

げんしけん(1)

 本心からなりたくないのに「なろうと思ってなれるもんじゃない」に感じる悔しさや悲しさは、我ながら浅ましいと思いつつ、隣の芝生は青いってことなのかな。きっと何者にもなれなかったまま。

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