太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

人間関係10連ガチャ社会において「行けたら行くよー♪」と言いがちなクズからの言い分

行けたら行く

 ここの所、仕事の予定が組みにくくなって先の事を聞かれても「もしかしたら行けるかもしれない」ぐらいの返答をしがちなクズです。一昨日もそんな事を書きました。申し訳ないとは思っているのですけれど。

 この言葉が嫌われる理由として以下の事が挙げられています。

【1】値踏みされている感がある
【2】単純に予約変更等の事務手続きが面倒くさい
【3】本当はそいつがそれ程気乗りしていないことが分かるから

【1】値踏みされている感がある

 程度の問題はあれ値踏みをしているのは確かにあるでしょう。「仕事を病欠する」などの選択肢を含めたら「完璧に無理」という状況は殆んどありませんが、本当にそこまでする必要がある事なのか?というバランスにおいて保留しているわけです。

 それに対して「是非来ていただきたいと私に指名されているかのだから、あなたは優先的に応じなければならない」という「気持ち」に対して返報性の原理を使われると、こっちも随分と安く値踏みされたものだなと感じてしまいます。または自己評価がすごく高い人なのかな?と。

【2】単純に予約等の事務手続きが面倒くさい

 これについては同意です。「行けたら行く」になってしまう時は、以下の事はクズなりに意識しています。「ドタキャン」するのもされるのも嫌いですし、それは避けるようにしています。

  • 基本的にいけない可能性が高い事を伝える
  • 日程調整に絡まないで他の人の希望を優先する
  • 人数変更に寛容な会か確かめておく
  • 予定が確定しなかったら早めに断る

 予約変更不可になってから「行けない」と言い出す人にはキャンセル料を徴収してよいかと思います。ただ「行ける」って言っておいて実際には行けない事態の方がよほど困るだろうと思うわけで、半々ぐらいの可能性で行けそうでも「行かない」って答えざるを得なくなってくるのを残念だと思う事があります。

【3】本当はそいつがそれ程気乗りしていないことが分かるから

 実際には「気乗り」の問題じゃ済まない事も多いのです。その事について「無能」だと言われればそうなのだけど、お客様の都合とどちらを優先するかと言われれば答えが出てしまう現状があります。「きょうは会社休みます」と言われて飲み会に参加されても重くなってしまうでしょう。

きょうは会社休みます。 1 (マーガレットコミックス)

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 なんでも気分の問題で済めばよいのですが、体調やタスクの調整がつかないことについて「気分の問題」と断言されると辛い事があります。「愛してないから、今すぐに来てくれないんだ」って話ばかりではありません。その時に「100%じゃないなら0」という切り捨てをしていけば期待値はずっと0のままです。

二度と誘わないと宣告される事について

 「行けたら行く」について以下の対処法が挙げられています。

 だとしたら、「行けたら行く」という人に対して言うべきは何か。それは「じゃあ来ないでいいよ」です。

 ニッコリとそう言い、もう誘わないでいいのではないでしょうか。

 要するに呪詛を吐いて関係をおしまいにするということですね。それが出来るなら、その程度の関係性だったということでしょう。本当に「あなたに是非来ていただきたい」という気持ちがあったのか疑問に思ってしまいます。

目的がすりかわっていないか

 「ちゃんと決めないなら二度と誘わなくていいや」から透けるのは「こちらの事を優先しないなんておこがましい」「来なくても別に良いけれど、事務手続きとか面倒だな」という本音ではないでしょうか。「各々の都合や言い分を汲み取って関係性を育みたい」よりも「その会の遂行を滞り無く済ませたい」に目的がすり替わる人間疎外をされると醒めてしまう事があります。そのデートコースを達成したかよりも二人で楽しめたかだよね。みたいな。

 自分を尊重してもらう為の手段として、二度と誘わない・別れる・無視・リスカみたいな「条件付きペナルティ」で相手を動かすのに慣れてる人ともあまり関わりたくありません。強い態度や自罰的コミュニケーションは、その場限りの譲歩を引き出せる事もあるのかもしれませんが、長期的な関係性の芽を摘んでしまうようにも思います。同情や罪悪感で結ばれる関係は互いに辛いだけです。

人間関係10連ガチャ社会

「だって直前になるまで状況なんて分からないじゃ~ん。『行けたら行く』としか答えようがないんだよ」とおっしゃる方は、一生それを言い続け、気付いたら何も誘われない人になっていてください。

 これには「お前を誘わなくても他に誘う人がいる」が含意されており、それは「お前に誘われなくても他に誘われる人がいる」との鏡合わせでもあります。「気に食わないなら関係を断つ」が簡単にできるのは流動性が高まった現代社会ならではの話です。

 人には認知スキーマがあって、一度スキーマが崩れると好意であれ、嫌悪であれスパイラルに高まっていくのが性質ですが、ここ20年ほどでコミュニティの流動性が高まった事もあって「いちいち相手の立場を理解しようと考えるよりも切断して新しい人を探した方が良い」という言説も強まっており、これは結果として岡田斗司夫の提唱した「自分の気持ち至上主義」の浸透でもあります。コモンカードを育てるより、次のガチャでレアを当てようって話です。

 現代は「人間関係10連ガチャ社会」に近付いているのだと思う事があります。ソーシャルメディアであれ、地域コミュニティであれ、結婚活動的な事であれ、誰かと出会う機会ばかりがどんどん増えていって「受け入れる努力をしないでも、ここではないどこかにピッタリの人がいるんじゃないか?」という幻想を抱きがちでもあります。「ピッタリの人」としか良好な人間関係が作れなければ、多少の状況変化でヘイトに転じやすく、長期的な関係も期待できません。

 「ここではないどこか」が本当に生まれてしまった一方で、「結合定量の法則」や物理的な時間不足によって、実質疎外が簡単に起こっていきます。沢山の人と会って、沢山の人に忘れられていく過程においては沢山の「すれ違い」が起こっていくのも仕方がないという諦観もあります。

関係性は「試す」ものではなく「育てる」もの

 そんな中でも、「この人との関係性を保ちたい」という欲望を叶えるためには、相応のアクションが必要ですし、そのアクションへの期待をしすぎても仕方がないのだと思います。他人は初手から自分の事を最優先に尊重してくれるわけではありません。尊重し合うまでの過程を端折りながら「尊重してくれない」と怒り出すのは、結局のところで自分自身が相手を尊重していないからでしょう。

 関係性は「試す」ものではなくて「育てる」ものです。「是非会いたい」と思う人についてまで、こちらの事を最優先に尊重しないなら関係を断つという事を繰り返していては、可能性を随分と狭めてしまうように思います。もちろん、一定のところで「損切り」をする決断も必要にはなるのですが、僕達のありえたかもしれない友愛を簡単に殺すものがいるとすれば、その可能性に最初からあまりに多くの期待を寄せる僕達自身ではないでしょうか。

 もちろんクズはクズだし、いつも申し訳ないと思っているのですが、その事を0か100かで捉えられてもつらいなーと思います。なるべくなら僕抜きで日取りを決めてもらって直近1週間ぐらいの範囲で予定を聞いて頂けると比較的答えやすいので助かります。

人間関係が「しんどい!」と思ったら読む本

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