太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

人間には「興味」と「網羅」が両立できないがロボットには出来る

「興味」と「網羅」を同時にこなすって人間技としてありえない

 糸井重里がニュースキュレーションメディアについて面白い指摘をしていた。

 もちろん、空気中に漂ってるニュースを全部読むのはめんどくさい。それに本当に大事なことはニュースそのものには書かれていなかったりする。そこで、何を読んだらいいかわからなくなってる人に「こんなところから私はニュースを探してきましたよ」っていうのが、ニュースキュレーションメディアでしょ。

(中略)

 「興味」と「網羅」を同時にこなすって人間技としてありえない。ただ、ロボットはできるんだよね。Googleの検索エンジンがやってることは、人間にはできない。でも結局最後にニュースから意味を読み取るのは人間なんです。

 興味を保つことと、網羅性を保つ事は両立しない。「選別」があることで、まずは「選別された事」自体に興味が喚起され、次に「選別されなかった事」を知ろうとする興味が生まれる。境界線があるからこそ生まれる運動量があるのだ。

ぜーんぶ知ってしまうと、それで終わっちゃうから。
たのしみを残しておかないと。
なんていうの? 男と女みたいなものですよ。
愛するというのは、
すべてを知ろうとすることとはちがうんだよ

 この事は糸井重里の基本的な態度設定となっており、いくつかの文章で強調されてきている。ここで必要となるのは「まだ知らない部分が残っている」という事実と「無知」への認知である。勉強をしていく「過程」においてのみ、もっと勉強しなきゃいけない事が増えていく。

「興味」と「網羅」の過程で留められる情緒は人間の特権

 この興味と網羅の関係については村上春樹の『風の歌を聴け (講談社文庫)』の主題でもあると感じている。伝えるべき事がなくなった時に文明は終わるのだから、「まだ伝達すべきことが残っている」という共同幻想を維持し続ける必要がある。

 恋がはじまるのはいつだって「あなたの事をもっと知りたい」という欲望からであり、恋がおわるのはいつだって「あなたの事はもう分かった」である。完璧な殺人事件は死体が発見されない事で達成できるが、死体が発見されなければ事件を解決するための欲望を維持できない。

 糸井重里の発言には、もうひとつ重要な指摘があって、「興味」と「網羅」が両立できないのは、あくまで「人間技」の話であって「ロボットにはできる」という事である。GoogleはWeb上の全てをインデックスしようとするし、ビッグデータでは「取得し得る全て」を解析対象とする。もちろん、完璧な網羅は物理的に不可能であるが、ひとりの人間として網羅可能な範囲はとうに超えながら「さらに知るべきこと」を増やそうという命題を開発者にも機能にも刷り込まれ、愚直に実行しつづける。最終的に解釈するのは人間だとはいえ。

 そう考えると「興味」と「網羅」の過程で留められる情緒を享受できるのは人間の特権なのかもしれない。「知りたい」という欲望を抱く事と、本当に知ろうとする事には幾分かの留保がある。「できないから、しない」と「できるのに、しない」の境界線が溶かされていく中で、「何をしなかったのか」という部分にこそ、その人の本質的な生き方が顕れるのだろう。

インターネット的 PHP文庫

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