太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

浦賀和宏『記憶の果て』〜厳密に似ている同士の社会的劣性遺伝子

記憶の果て(上) (講談社文庫)

記憶の果てにあるものとは?

父が自殺した。突然の死を受け入れられない安藤直樹は、父の部屋にある真っ黒で不気味なパソコンを立ち上げる。ディスプレイに現れた「裕子」と名乗る女性と次第に心を通わせるようになる安藤。裕子の意識はプログラムなのか実体なのか。彼女の記憶が紐解かれ、謎が謎を呼ぶ。ミステリの枠組みを超越した傑作。

 自殺した父親の残した人工知能「裕子」との会話を行いながら、心を通わせ、恋に落ちる。悪友たちと音楽について語らい、人工知能に意識があるのか? なんていう文化系部室的な談義をしながらも、明らかになっていってく現実世界にかつて存在した「裕子」の実存と自身の嗜好や行動の源泉。以下にネタバレを含む。

脈々と受け継がれるナルシズム

 この小説は青春ノベルのようでありながら、脈々と受け継がれるナルシズムと近親相姦的願望を描いている。直樹が「裕子」を好きになる理由はいくつかある。それは彼女は「母親」であり、「姉」であり、そして「自分自身」でもあるということ。しかし、それらは元来「故に好きになる」という理由としては不適格であり、どこまでいっても「自分自身」との厳密な一致と無条件な寛容を探しているにすぎない。

 「自分とよく似ているから好き」という感情は危うい。現実とずれた幻想を押し付けている可能性が高いし、よしんば厳密な一致をしていても社会的な劣性遺伝子となりやすい。だけど、どこかで「生まれ変わり」を探し求め、それが叶わなければコピーを創りだす欲望にとりつかれてしまう道がある。社会的にも、生物的にも。

 父親と姉から生まれた幼い直樹の脳に電極を差し込んで作られた人工知能。そんなことは、この世界では不可能なのだろうけれど、作中世界においては成立する。意志力の問題だ。悪友や恋人になりそうだった人々と、ほんの少しだけ似ていながらも、似ていない部分が沢山あるからこそウマが合い、助け合えていた。

 それなのに自身に厳密に似ている「裕子」に溺れていく。ヴァンゲリスが奏でるブレードランナーのサントラはレイチェルを想起させる。

最低二つは楽しめることがある

 ところで、似た者同士の比較をする時に使う2chの慣用句の一つとして、「巨人・上原と中日・川上、どうして差がついたのか…慢心、環境の違い」といったものがある。出自が似たようなものなのに、後天的な慢心と環境の違いによって互いの状況に大きな差がつく。

 直樹と「裕子」は同じ出自を持ち、同じ父親に育てられたが、決定的や「環境の違い」として「物理的な肉体」の有無がある。直樹は恋人同士になるかもしれなかった「浅倉」と悲しい一夜を過ごして言う。

「どんなに生きることに不器用で、人生を楽しむ術を知らない人間でも、最低二つは楽しめることがあるんだ……。それは何だと思う?」
 浅倉は暫く考えこんで、
「……分からない。教えて」
「知りたい?」
「意地悪しないで、教えてよ」
 俺は一拍おいて言った。
「音楽とセックス」

 浅倉となら得ることのできた結びつけるべきではない二つの快楽には物理的な肉体が必要である。生きることに不器用で、人生を楽しむ術を知らない同士であっても箱の中に閉じ込められ、成長してきた「裕子」にそれはできない。同じ記憶の果てを見たアルターエゴを「あちら側」の世界から解放するための試みと実際は儚く消えゆく。