太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

2035年からの終活戦線、「弱いつながり」だけでは異常アリ〜吉田太一『孤立死 あなたは大丈夫ですか?』

「孤立死」の問題

 テレビのドキュメンタリーにおいては「孤独死」という言葉がピックアップされる事が多いけれど、日本政府においては「孤立死」という言葉になる事も多いのだそうだ。確かに「孤立死」という言葉の方が、親族や気にしてくれる人が周りにいたとしても、邪険にしたり疎遠になったりしているうちに、結果として誰にも看取られず、死後数日〜数ヶ月発見されないといった頻出ケースに合っているように思われる。

ただでさえ疎遠になっていたのに、清掃費用や家賃などに関する道義的な連帯保障などが遺族に降りかかるなんて事を考えると本当に天涯孤独になっているよりも「死ぬ瞬間の大きな後悔」を抱く可能性が高いのだろう。大家さんにとっては請求先がいるだけマシなのかもしれないが。

「中食(なかしょく)」は孤立に向かいやすい

 本書では遺品整理屋を営む著者によって、孤立死の実態や生活スタイルの変化と孤立死の関係性などが語られる。例えば「中食」の話。「外食」であれば店員や馴染客との関係性が出てくるし、「内食」であれば都度の買い物をしたりおすそ分けみたいな話があるけれど、冷凍食品やインスタントなどを家で食べる中心にしている誰とも顔を合わせない日の頻度が増えてくる。

 現代は通販や宅配なども充実していて、家から出る事も、料理をする事も絶対に必要なものではなくなった。もちろん、外食に行っても誰とも話さないとか、内食であってもネットスーパーなどがあるという話はできるのだけど、孤立死した人を調べたら、中食を中心にしている人が多かったと言われれば納得できるところではある。

もう誰も信用できない

 孤立していく過程においては「もう誰も信用できない」という気持ちをどこかで抱いている事が多いという。「もう誰も信用できない」と考えてしまうのは、個人的な心性も大きいのだけど、社会構造の問題でもある。僕の世代はロストジェネレーションの末期に属していて、鈴木謙介氏の言うところの「何かを期待して、裏切られた世代」である。

今の30代は何かを期待して裏切られた世代。たくましく生きる覚悟はあったのに、2000年代に厳しい現実に直面して「やっぱ無理だった、一生懸命やったけど、何にもなんなかったじゃねえか」と怒っている。同時に「自分の努力が足りなかった」という自己責任感も強く引きずっている。逆にその下の20代はハナから「期待するな」と教えられた世代。もっと冷めていて保守的だ。

リアル30's

リアル30's

 それでなくても誰もが詐欺や洗脳まがいの話に巻き込まれる可能性があると知っているし、LINEだって乗っ取られる時代だ。信用したらバカを見ると教えこまれてしまえば、便宜的に「信頼」する事はあっても、「何があっても信用する」という事は出来ないのだろうと思う。僕に「信用」の可能性があるとしたら、やはり家族などの「強いつながり」が必要になってしまう気がする。今のところは。

「弱いつながり」は作りやすくなったけれど

 ソーシャルメディアが発展した現代においては『弱いつながり 検索ワードを探す旅』を作るのは比較的簡単になった。簡単すぎて10連ガチャになっているのではないかと思うぐらいだ。だけど、これが20年後になったらどうなるんだろうという事への絶望もある。

2035年の世界

2035年の世界

 50歳を過ぎても相変わらずファストファッションを着てて、圧倒的成長とか出会いに感謝とか言ってて、親は入院してて、オタサーの姫がアラフィフの姫になっていてという事を想像するのはかなりキツい。「アラサーの姫」はまだ全然救いがあった。仮に2035年からオミックス医療が行われるようになったとしても、既に老化した僕を若返らすのはずっと先の技術になるだろう。

 正直なことを言えば、僕は見栄っ張りなので、老化や貧困などが一定以上に進んだら、このような「弱いつながり」の場からは姿を消す可能性が高いと思う。皆に疎外されるのが早いか、自粛するのが早いかはわからないけれど、死ぬよりも前に「その時」が来る事は覚悟している。その一方で見栄っ張りだからこそ維持や改善に努められる部分もある。

普通のつながりと「いいひと」

 「弱いつながり」の場から姿を消しても、残るのが地縁であったり、オンラインでも頻繁にやりとりするような「普通のつながり」であり、家族や親友などの「強いつながり」なのだろう。「弱いつながり」は、環境を変えるためには役立つけれど、このような事まで背負う事はできない。本書では「孤立死しにくい人」として以下の人物像が挙げられている。

  • 人から話しかけられやすい人間であること
  • 人に声をかけることができる人間であること
  • 人の歩調に合わせることができる人間であること
  • 人に経験上からアドバイスできる人間であること
  • 人が一緒にいるとホッとできる人間であること
  • 人が困ったときに思い出してもらえる人間であること
  • 人に安心できる笑顔を提供できる人間であること
  • 人からあてにされ頼りにされるような人間であること

 まさに『超情報化社会におけるサバイバル術 「いいひと」戦略』である。これはこれで、「ストレス死」しそうになるから程度問題なのだけど、「人に迷惑をかけたくない」という気持ちが強すぎて、結果的に自分と他人を疎外して孤立するよりも、迷惑を掛けあっても大丈夫な関係性を育てた方がよいのだろうとも思う。それは全面的なものではなくて、一定の範囲内の関係性でよいのだ。

 人間は言葉の上での記号処理には圧倒的に強いし、残酷なほどに鈍感になれるのに、眼前の物理な現実によって喚起された反射的な欲望には抗えない弱さを程度問題で持っている。でも、だからこそ社会が生まれるし、環境によって規定された合理性の限界を超えることができるという。

 人間は物理的な現実に弱いし、「普通」における程度問題は瞬間瞬間に移り変わっていく。その時に重視されるパラメータは、ゲゼルシャフト的な「能力」よりも、もっとゲマインシャフト的な「関係性」にある。イヤなひとにまで気を使うにはアテンションエコノミーが消費されすぎている。

20年後は社会のせいにできない

 「政治が悪い」「社会が悪い」なんて事を言っても実際に生活しているのは僕達自身である、20年後になったら現在の大物政治家なんて殆んどが死んでいるし、仮に「悪かった」と認められたところで、抜本的な解決策なんて出てこないのが現実なのだから、そんな事への依存を断ち切って自分たち改善をしていく必要があると本書を主張する。

一度死んでしまえば、それ以上失うべきものは何もない。それが死の優れた点だ。

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

 僕はこの言葉を信用しているけれど、死に至るまでは生者としての憂鬱を抱え込む事になる。この世とのお別れ自体は怖くないが、死臭を漂わせた腐乱死体が蛆が湧いた部屋に放置される事を想像しながら息絶える事は避けたい、と思う気持ちこそが僕自身の「欲望とプライドの中間点」なのかもしれない。

「終活戦線異常なし」と言えるようにするために

就職戦線異状なし (講談社文庫)

就職戦線異状なし (講談社文庫)

 孤立死を防ぐ取り込みとして、共同住宅で月1回の食事会を行う「隣人祭り」がフランスを発祥に行われるようになったそうだ。シェアハウスなんかも結果としてそのような事をしやすい。僕自身も現在のところは考えてないけれど、20年後にはBnBなどをしている可能性が高いだろうし、それより先には「親の介護」を引き受けざるをえないだろう。

 それでなくても、「普通のつながり」以上の関係性を持っている人が3日間も顔を見せなければ誰かしらには気付かれる。「孤立」と「おひとりさま」が違うのはその点であると本書は指摘する。結局のところで、孤立死は「死ぬ瞬間がひとりだった」という事が問題なのではなくて「死ぬ前に孤立していた」という事が問題なのである。ずっと孤立したまま嫌な気分で老後を過ごすのは死よりも恐ろしい。

 だから『「家から出ない技術」を身に付ければ「嫌われる勇気」なんていらない - 太陽がまぶしかったから』なんて事を言ってないで、もう少し深い関係性を結んでいきたいと思ったりもする。そんな動機もエゴではあるのだけど、「もう誰も傷つけたくない」なんてバカみたいな言い訳をしている方がよほどエゴなのだろう。それ、2035年になってからも言えるの?

孤立死 あなたは大丈夫ですか

孤立死 あなたは大丈夫ですか

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