太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

いのうえさきこ『私のご飯がまずいのはお前が隣にいるからだ』〜メシマズになる料理ウンチクに気をつけたくなる漫画

私のご飯がまずいのはお前が隣にいるからだ 1 (MFコミックス フラッパーシリーズ)

私のご飯がまずいのはお前が隣にいるからだ

 思わずドキリとさせられる強烈なタイトル。確かに同席をすると「ご飯のまずくなる」相手というのは居て、ひたすらマウンティングしてきたり、興味のない話題をごり押ししては反応が悪いとご機嫌ななめになるといった人とはなるべく同席したくない。この漫画の骨子は、あくまで一理ある食事ウンチク話ではあるんだけど、それが生半可である事がバレバレな状態で押し付けられることで「ご飯がまずくなる」感覚を共有する。

大好きなものをおいしく食べたい。そんな当たり前のことを願うサユちゃんのまわりには、なぜかツウぶりたい人ばかりが集まってくるのだ。スシはこう食べろ、蕎麦は粋にすすれ、から揚げにレモンかけるな! などなど。ただ静かにご飯が食べたいだけなサユちゃんの明日はどっちだ!?通気取りをめった斬りの新感覚おグルメあるあるコミック!

食のウンチクはマウンティングの道具じゃない

 『目玉焼きの黄身 いつつぶす? 1 (ビームコミックス)』を始めとして食への拘りを開示していく漫画は多くて、あくまで「人それぞれ」に落ち着くの一般的なのだけど、そこに仕事上の関係や年配者が入ってくるとややこしくなる。ロースカツ定食を頼んだらヒレカツ御膳を頼んだお局様に「サユちゃんは若くて脂たっぷり、私は肉もパッサパサ的な?」と言われたり、レモンをかければ揚げ物好きの上司に「へ〜・・トンカツにレモン……かけるんだー」と言われたり。食事のメニューや作法をあげつらって「お前は分かってない」感を醸し出される展開がお約束。

 それでいて、トンカツにレモンをかける事を馬鹿にした本人は鶏の唐揚げにレモンをかけて、「唐揚げにはレモンでしょ?」「唐揚げにはマヨが合うからレモンもOK でもトンカツにマヨは合わないからレモンはNG」みたいなオレオレ法則によるダブルスタンダード。自身の好き嫌いに後付けの理屈で強弁すればそうなるのは道理。議論がしたいわけでもない下っ端のサユちゃんは「はぁ・・・」という反応になってご飯がまずくなってしまう。

 「より美味しく」を求めながら他人をメシマズ状態にさせるマウンティングは本末転倒であるし、どうでもよいとか、面倒だからとスルーされているのに「自分は正しい」という固定観念を強めていくのはあるあるネタである。

他者への寄与をもってして自身の存在価値の根拠にしようと無意識に考えていると、得てしてハラスメントになっていきます。そして条理によってではなく仕事上の権力によって一時的に納得したフリをされるようになると、客観的な「正しさ」が不定値のまま、「正しいこと」として自身にフィードバックされて、その観念をさらに固定化します。

理想と現実の乖離があるからこそ饒舌になる

 なんて事を書いていくとウツ漫画だと思うかもしれないけれど、実際には四コマ漫画系の可愛い絵柄のギャグ漫画なので、そんなにジメッとはしていない。水を出さない拘りカレー屋さんがひたすらスパイスの効能を語りながら、酒メニューは利益優先で積極的に出して、ウィスキーのチェイサー(=水)ならOKだとか、先走る理想とデコボコに実装されてしまった現実との乖離は誰しも程度問題で持っているところでもある。

 なんであれ、現実が理想には追いついてないという自覚が意識的または無意識的にあるからこそ饒舌になってしまうという事は多い。僕がディスコミュニケーションについて饒舌になるのは、「失敗した」と思う機会が多いからだし、仕事論や恋愛論を意識高く語る人は過去の屈折が前提になっている事もある。その滑稽さを前提とするとウンチクやダブスタそのものが俯瞰で面白くなってくる。

 そこに「ご飯がまずくなる」の視点を持ち込んだのが新鮮であった。グルメ漫画は読者が味や匂いを確かめられないため、素材の良さや奇抜な調理方法を饒舌にアピールしなければ伝わらないし、反応も過剰で饒舌になりがちである。だけど、現実に美味しいものを食べてる時に、そんな能書きや反応を聞かされると、まさに「ご飯がまずくなる」わけで居心地が悪い。その構造的欠陥に対するひとつの解答であろう。

孤独のグルメ』の対極

モノを食べるときはね 誰にも邪魔されず自由で なんというか救われてなきゃあ ダメなんだ
独りで静かで 豊かで…‥

 僕も基本的にはひとり飯が好きであるし、「私が回転寿司来るときって黙って食べたいときだから」なんて台詞に共感するけど、常にひとり飯がしたいわけでもない。誰かと話しながら食べるご飯が美味しくなることもあるし、新しい食べ物や食べ方を知るのも楽しい。BBQの回で普段は冴えない男子がイケメンに見えたりと、違った一面が見える事もある。

 まかないランチを一緒に食べることで生まれる一体感もあるし、もっと言えば同じ食卓を囲んで同じようなものを食べ続けると性質まで似てくる事もあると思うのだ。

 人体のほとんどは食物から再生産されているのだから、食物が似れば似るほど性質が似てくる側面もあるのではないか。「同じ釜の飯を食った」というのもそういうことだろう。実家を出てから考え方の違いみたいなものを感じることが増えたのだけど、そこには食べ物の問題も大きいのかもしれない。

 似てるから同じ飯を食べ続けられるのか、同じ飯を食べ続けたから似てくるのか。どちらが先なのかは場合によるのだろうけれど、ハレもケも含めて一緒に食べるご飯がおいしいって関係はなんかよいなって憧れる。

私のご飯がおいしいのはあなたといっしょに食べているから

 『私のご飯がまずいのはお前が隣にいるからだ 1 (フラッパー)』でも職場の先輩やサークル仲間など、ご飯を一緒に食べる相手がいる。そのたびにウンチク話を聞かされたりして呆れるものの、絆が深まっていく描写もある。「最後の晩餐で何を食べるか?」という話題も結局は「誰と食べるか?」になるし、「私のご飯がおいしいのはあなたといっしょに食べているから」と締められる。その視点は友人関係や恋愛関係において最重要となる事もあろう。

 メシウマやメシマズといえば「料理の美味しさ」や「食事のマナー」を最初に思い浮かべがちだけど、もっと精神的なものもある。人間が生涯に食事をする回数は最大限に見積もっても3回×365日×80年で87,600回程度であるわけで、メシマズ状態で消費していくのは勿体ない。僕自身も、ご飯が美味しくなる会話や所作ができればという事は意識したいし、漫画について饒舌に語るにしても「私の漫画が面白くなくなったのはお前が解説したからだ」になってはいけないのだと思う。

 2巻完結なのであまりディープな料理に関する蘊蓄にまでいかなかったのだけど、それはそれで共感しやすい。グルメ漫画好きにはお馴染みの話もあれば、俗説を素朴に信じてるキャラクタもいる。タイトルは強烈だけど、ほのぼのとダブルスタンダードなあるあるやウンチクにニヤリとできるので、気になった方は読んでみてはいかがでしょうか。