太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

西村賢太『二度はゆけぬ町の地図』感想〜『苦役列車』の前日譚となる私小説において「自虐的な道化師」として描かれる貫多の日乗

二度はゆけぬ町の地図 (角川文庫)

二度はゆけぬ町の地図

 本書は、中卒で日雇労働をしながら、酒と女に蕩尽してきた筆者の「私小説」である。西村賢太について、僕としては『苦役列車 (新潮文庫)』の芥川賞受賞が話題として消費されつつあり、作者が甚だ不満だという映画化をされてから知る事になったミーハーな読者のひとりである。

 映画は森山未來演じる貫多が風俗から出てくるところから始まる。主人公は19歳で舞台は昭和のバブル前。父親の性犯罪による家庭崩壊を経て中卒の日雇労働者となっている。いかにも薄汚くて、なけなしの金を酒と女につぎ込んで無一文になってしまう典型的なロクデナシである。

 それでいてギャンブルもせずに読書が好きで、どうせ家賃を踏み倒すのであればもっと良いところに住んでも関係ないのに月1万円を払わずに追い出される小心者の倫理があるところからキャラクターが浮きあがる。

 本書では貫多を主人公とする短篇集として、家賃を踏み倒したり、就労先で喧嘩をしたりを繰り返して、「二度はゆけぬ町」を作っては別の町に流れて行くデカダンスな日常を描きだす。どこまでも卑屈で、アテのないその日暮らしをループしていくのだけど、16歳の少年が自活をしようとしていけばそうなってしまうのも必然であろうとも感じた。

 雇われる場所が非常に限られ、肉体労働で疲れ果てたなかで日雇いの給金が手元にあれば楽しみは一夜の酒と女しかなくなっていくという必然性も作品内では描かれているわけで、映画の『苦役列車(通常版) [DVD]』において哲学的ゾンビかと思うぐらいに共感不能に演じられていた部分を筆者が不満に感じた事にも納得がいく。映画は映画で面白いと思うけれど。

苦役列車』では語りきれなかった貫多のサイテーな日乗

 『春は青いバスに乗って』では働いていた居酒屋で喧嘩をした際に、警察を殴ってしまい留置場に入れられる。そこで『刑務所の中 (講談社漫画文庫)』のライト版をしながら、実は職場で嫌われていた事を伝え聞かされたり、公務執行妨害罪だと実刑になるかもしれないと怯えて屁理屈を言い続けるというのが可笑しくも悲しい。留置所の中では「自腹」が多かったし、日雇いにも行けなかったからと、釈放される解放感よりも財布の事で暗澹としはじめるのがリアル。

 『潰走』では、当初はひとがよさそうだと高を括っていた大家の老夫婦が家賃が払えないとなった途端に豹変して、苛烈な取り立てをされるようになる。散々滞納しつつ、なんとか1ヶ月分払うものの、次の月には誘惑に負けてもう払えないからと右往左往する案の定感。

 他にも風呂屋で腋臭の人とよく鉢合わせになったという思い出話とか、ナンパについてきた器量のよくない女子高生に振られる話など、『苦役列車 (新潮文庫)』の前日譚に当たるであろう最低な日常を描き出す。

自虐的な道化師としての貫多

 私小説でありながらも(だからこそ、というべきか)、地の文での冷静なツッコミにも容赦がない。西村賢太は「北町貫多」というかつての自分を徹底的に惨めな人物として描き出そうとする自虐的な側面がある。もちろん、それにはサービス精神に満ちた「お道化」としての脚色が含まれているし、小説としての綿密な設計がなされている事は『一私小説書きの日乗 (角川文庫)』などからも明らかにされているのだけど、そうと感じさせない読み心地が気持ち良い。

 一作ごとに、実験だか冒険だかを試み、それを読者に提供することこそが作家の本会、と心得るのは立派である。が、常に同一の主人公しか使えぬ、小説としては、本来かなり致命的な制約を受けた中でひたすらに足元のみを掘り下げると云う、まことチンケな小世界の探求も、しかし一切の逃げ場がないぶん、小説の作法としては案外にスリリリングな実験と冒険の実践と云った面もないではない。

 このブログ内の一部の文章でも雑多な内容を取り込みながらも(他者言及ではなく)池田仮名という虚構の人物を主人公にした私小説として書くという「試み」をしているつもりなのだけど、「私小説」というジャンルについて、いまだよく掴めていないところがある。「虚構へのふてぶてしい態度」のみをもってして、「私小説」と言うわけにもいかないのだろう。その辺について、もう少し突き詰めていきたい。