太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

海を競争相手か、ただの場所か、あるいは敵、または恋人と見なすこと

photo by Moyan_Brenn

競争相手か、ただの場所か、あるいは敵、または恋人と見なすこと

 仕事・趣味・投資・人間関係などのいずれかにおいて、競争相手か、ただの場所か、あるいは敵、または恋人と見なすのかという行動指針で他者とのすれ違いのような事が起こりがちである。ヘミングウェイの『老人と海』にこんな一節がある。

老人にとって海とは「ラ・マール」だった。スペイン語で海を愛して言えばそうなる。海を愛しながら海の悪口を言うこともあるが、それでも海を女に見立てて言っている。これが若い漁師なら、たとえばブイを釣りの浮きとして使ったり、鮫の肝臓で儲けてエンジンつきの船を買ったりした連中なら、「エル・マール」と男性名詞で言いもする。海のことを競争相手か、ただの場所か、あるいは敵とでも見なすようだ。しかし老人は海とは女のようなものだと思っていた。大きな好意を寄せてくれるのかくれないのかどっちかだ

老人と海 (光文社古典新訳文庫)

老人と海 (光文社古典新訳文庫)

 若い漁師にとっての海は、競争相手か、ただの場所か、あるいは敵であるのに対して、老人にとっての海は清濁併せて愛すべき対象である。それらの違いについて軽蔑したり、隠された意図を邪推するのも構わないけれど、別方向の想像力を働かせてみるという選択肢もある。

手段に失敗してからの目的の再設定

他人の手段を見た時に「どう考えても効率が悪い」とか、「それじゃあ無理だよ」ってすぐに分かるような場合は、そもそも達成したい事がなんなのかを確認した方がよいことが多い。それがプリミティブな欲求であるほど、自分とその人が目指している目的が同じだと思いがちだけど、そうでないことも多々ある。そもそも異なる目的に対する行動を見ているのだから、最善手を取ってないように見えるのは当然という話であり、明白におかしいと感じる場合ほど、その可能性が高いと言えよう。もちろん本当に無能である場合もあるのだけれども。

 ここで難しいのは、「達成したい事」の自己言及には自分自身すら騙すための嘘が混じりがちであったり、そもそもが明確化されていない事が多いという事である。逆に言えば「達成したい事」なんて後付けで変更しえる。「前からそうだった」「実はそうでもなかった」と言いたくなる現象はありふれているし、最善手なんて仮に見えていても取れない事のが多い。

 あらゆる事象について競争相手か、ただの場所か、あるいは敵、または恋人と「見なしたかった」「見なすべき」「見なせる」「見なされる」という差分が生まれがちだからこそ、せめて自覚的な混同をしていきたい。物理的現実の理路から外れた事に執着をし続けるのも、最初からなかった事にするのも違うのだろう。

老人と海 (光文社古典新訳文庫)

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