太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

寄与の不可能性に対して量をこなす「現実への逃避」をしはじめたら黄信号

photo by bugmonkey

アウトプット過多になりつつある

 ここのところで本業がかなり忙しくなったり、ライターとしての締め切りを常に抱えている状態なのにブログもブログで日に数本書くのが当たり前になっていて、あまりよい状態ではない気がする。

 ここのブログも1日で7回目の更新。どれも数千文字単位。サブブログとかツイッターとか原稿とかも書いているし、メールの往復もして、実は会社のリモートワークでも文書を書き続けていた。

 そこまで書きたいことがあるのかといえば、そんなこともないのだけど、とにかく写真を貼ってキーボードを打って送信ボタンを押すという作業を続けてしまう。もしかしたらハイパーグラフィアなのかもしれない。

 本業であれライティングであれ、それでお金を頂くのであれば「量をこなす」という段階は卒業してなきゃいけないし、ひとつひとつのクオリティのが余程大事なのだけど、どうにも大量のTODOをこなすこと自体に快楽を感じてしまう傾向にある。

営業活動は大量行動が大切

 営業活動においては大量行動こそが重要であると説かれる。相手の「買いたい気持ち」が訪れるタイミングがこちらの行動とは関係しない商材であれば、自身の寄与を最大化するよりも、タイミングを逃さないことのが重要となる。

 今回紹介した企業は、それまで1人50件程度であった活動量を300件に引き上げた。これを私は「超・行動」と呼ぶ。これは組織営業をするうえで、新しい発想であり、本連載のメインテーマである。

 「超・行動」とは、「点」の集積によっていきなり「面」にしていく行動を指す。「点」を「線」につなげ、「線」を「面」に展開する行動ではない。

 キーワードは「大量」と「連続」である。大量で、なおかつ連続的な行動によって、複利効果とリスク分散の両方を実現し、目標を最低でも達成させる。このような営業スタイルを「超・行動」と定義する。

 これはこれで、必要な観点だ。自分ではコントロールが出来ない範囲が大きいものは、面展開にすることでリスク分散を行うのが定石であり、いわゆる恋愛工学もこの手の話の焼き直しにすぎない。だけど「アンコントローラブル」の範囲を大きく見積もりすぎてしまうと、フィッティングできる余地があったものも見過ごしてしまうことになる。

量をこなすこと自体に快楽を感じはじめたら黄信号

 寄与の不可能性はもちろんあって、全部の出来事に自分が関係していると思う方が病気なのだけど、何も寄与できないという宿命論もまた病気である。実際問題として、大抵の出来事には少しだけ寄与できるし、もっと寄与してほしいとすら言われることがある。

 その一方で「社二病」では一般的に逆になり、「寄与の過小な実感」という定義になる。すなわち、どんなに努力をしても大局を変える事はできないという宿命論のなかで「社会は厳しい」という、現実らしい「現実への逃避」をするという逆転が起こる。

 実際問題としては「殆んど寄与できない」が正しい。それは「少しは寄与できる」ことの裏返しである。人生は殆んど無益かつ殆んど無害な事象の積み重ねであり、他者や環境に対しても殆んど無益かつ殆んど無害な寄与が蓄積されていく。

 「量をこなす」という行動は大澤真幸のいうところの「現実への逃避」という意味の現実逃避活動である。「現実を見ろ!」「それが現実だよ」というときに生まれる観念上の「現実らしい現実」への逃避。確かに大量行動は裏切りにくい。どんなに低いコンバージョンレートでも、相応の結末を返してくれる。だけど、そこに至るまでに死体になって転がった諸々から逃れきることはできない。観念上の「現実らしい現実」から切断された諸々もまた物理的な現実の一要素なのだから。要するにいえば、もうちょっと丁寧に仕事をしていこうってことなのだけど。

不可能性の時代 (岩波新書)

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