太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

絶対に嬉しいと思ってはいけない24時が「学習性無力感」を引き起こす

photo by geoffroy demarquet

褒め言葉を絶対に嬉しいと思ってはいけない24時

 「嬉しかった言葉」というお題があった。とっくに期限切れになっていたのだけど書きたい。実のところで他人の言葉によって「嬉しい」だとか「悲しい」という感情を抱く事があまりない。言葉に対して感情が動きにくいというか、物事はある種の理路や必然性に基づいて起こるもなのだし、その前段階のメタコミュニケーションで済んでいることが殆んどなので「まぁ、そうだよね」という確認作業にすぎない。

 それは未来予測ができるという意味ではなくて、むしろ結果が決まった瞬間から寄与のネタばらしを逆算し始めるということだ。「あれがアカンかったかー」とか「そらそうよ」みたいな感想戦によって外部化された事象について、嬉しさや悲しさの当事者性は薄まる。強いて言えば次の行動をマシにするための「反省」や、済んだことは仕方がないという「諦観」は残る。

返報性を期待されると心が醒める

 何かの返報性を期待しているのであろうお世辞をされると心が急激に醒めていくのだけど、それは「返報性の原理」に縛られない場所にあるものしか信じたくないという固定観念に縛られすぎているのだと感じることもある。物事を少しだけ円滑に進めるためになされるお世辞に深い真偽はないし、いちいち引っかかる必要性もない。

 幸福感は転落の序曲でしかないし、期待は裏切られるものだし、承認はアヘンである。絶対に「嬉しい」と思ってはいけない24時。「無能で説明できる事に悪意を見出さない」というハンロンの剃刀を内部規範化しすぎると、翻って純粋な好意からなされたことに好意を見出しにくくもなる。「有能で説明できる事に好意を見出さない」という事態になるということだ。

僅かな事実を証拠金に感情のレバレッジをかける

 だけど、そんなことをし続けてもよい結果になるとも思えないわけで、自分にとって良い言葉への感度をあげて、悪い言葉への感度を下げはじめてもバチはあたらないかもしれないと思う。お世辞かどうかに関わらずともね。

 つまり、陶酔力FX口座を活用することでトリスタン・ツァラの詩のように、65%の自殺のような賃金労働と30%の文化的で健康的な生活によって安全性を確保しながらも、5%の貧血性の火花をともなった、なかば醒めた昏睡状態に20倍のレバレッジをかけて「生の実感」を委ねるポートフォリオを組める。

 それはそれで、根拠の無い自信に繋がるのだけど、実はそれも重要な要素であったと近年の研究では言われているそうだ。ある種の勘違いをしなければリスクを伴うチャレンジができないし、絶対にできることをばかりをしていたら成長もできない。自己認識が正確すぎてポジティブな勘違いができないことこそが、無力感を引き起こしているのだ。

自分に根拠のない自信を持つ傾向は、「ポジティブ・イリュージョン」として知られています。といっても、“幻想(勘違い)”なんだから矯正すべきだ、といいたいわけではありません。

子どもに対して「もっと現実を直視しなさい」と説教する親や教師がいますが、自己評価と他者の評価が一致している、すなわち“勘違いしていない”ひとの典型はうつ病患者です。あらゆる出来事をネガティブにとらえてしまうのがうつ病だとされていましたが、最新の研究では、彼らの自己認識は正確すぎてポジティブな勘違いができないのだと考えられるようになりました。

現実らしい現実を直視しぎるのも、また「現実への逃避」である

 現実らしい現実を直視しすぎるのも、また「現実への逃避」である。まだ若くて、色々な可能性が残っているのであればストイックな根治を目指してもよいのだろうけれど、今からサッカー選手を目指しても仕方がないようなものであって、もう殆んどのことは根治しきらないままに死んでいくという諦観を受け入れた段階であれば、ペインクリニックにはペインクリニックなりの価値がでてくるのだろう。

長期にわたってストレスの回避困難な環境に置かれた人や動物は、その状況から逃れようとする努力すら行わなくなるという現象である。

学習性無力感 - Wikipedia

 「学習性無力感」や「学習性絶望感」に陥ってしまうと本当に厄介なのだけど、お世辞を嬉しいと思ってはいけないというストイックさが結果として「学習性無力感」を引き起こしてしまう側面もある。「話半分」といえば「真に受けない」という意味で使われがちだけど、半分ぐらいは都合よく信じてもよいのかもしれない。

学習性無力感―パーソナル・コントロールの時代をひらく理論

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