太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

小田嶋隆に30年前から予言されていた「個人的な出版によって失われる詩人とそば屋の純潔」のはなし

個人的な出版によって失われる詩人とそば屋の純潔

 休日のたびに本棚整理をしているのだけど、その中でたまたま『我が心はICにあらず (小田嶋隆全集 第1巻)』の原著をめくっていて、以下の文章を見つけた。

 私が懸念しているのは、現在の小規模なパーソナルパブリッシャーたち(詩人とそば屋)がかろうじて保っている純潔が失われはしまいかということだ。個人的な出版事業が安易に、しかも大規模に行われるようになるのだとしたら、駅前詩人の純潔や、そば屋の貼り紙の奥ゆかしさなんてひとたまりもない。
「小田嶋さぁーん今月の『月刊田中』読んで貰えましたかぁ?」

我が心はICにあらず (小田嶋隆全集 第1巻)

我が心はICにあらず (小田嶋隆全集 第1巻)

 あぁ……『月刊池田』どころか「今日の『日刊池田』読んで貰えましたかぁ?」と、しつこくSNS等で告知している自分が浮かぶ。

 当時において「個人的な出版」と言えば、路上で「こころを売ってる」詩集や、そば屋の「冷やし中華はじめました」と控えめに告知する貼り紙ぐらいのものだったのだけど、それが個人的かつ押し付けがましいものになりやしないかという懸念は30年後の現代では過激化の一途を辿っている。

「送り込みたい情報」が強くなりすぎていないか

 たぶんパーソナルパブリッシャーが提供する情報は、こっちが受け取りたい情報ではなくて、向こうが送り込みたい情報だ。この十年間を振り返って見ても、増えたのは押し付けがましい情報ばかりだ。電話ボックスの助平ビラ、レーザーカラオケ、二光お茶の間ショッピング、ストリートパフォーマンス、ものみの塔、右翼の宣伝カー、行革キャンペーン、二十四時間テレビ、こんなものばかりが増えているのである。このうえド素人の個人までもが出版なんか始めたらどういうことになるかは見当がつきそうなものだ。

我が心はICにあらず (小田嶋隆全集 第1巻)

我が心はICにあらず (小田嶋隆全集 第1巻)

 恣意的に順位を高めるためのSEOや、返報性の法則を利用したソーシャルバズなどについては、如何にして「他人の送り込みたい情報」「相手の受け取りたい情報」を押しのけてさえも「自分の送り込みたい情報」を相手に到達させるかという話でもある。ミームもジーンも同じ生存闘争に晒されている。

 キャッチコピーにも「売り言葉」と「買い言葉」という分類があると『「売り言葉」と「買い言葉」―心を動かすコピーの発想 (NHK出版新書 412)』に書かれているのだけど、そうやって他人を押しのけてさえも到達させたい「売り言葉」でまみれた文章については、正直なところでお腹いっぱいになってきている感もある。人のことなんて言えないのだけれども。

 ましてや、「送り込みたい情報」なんて特にないけど、「情報を送り込みたい」からとネタ探しに走ったりする倒錯は、終末感がある。

詩人とそば屋の純潔をもう少し意識したい

 僕自身にも意識的に詩人やそば屋であろうとしている時期が訪れてはいるが、他者に到達できないまま終わってしまう事に心が折れて、ついついバズらせるための技法に頼ってしまう事がある。以下に書かれているような「巡回」はしていないけどね。

ブログをはじめて知ったことのもう一つは、打算抜きのブックマークなんてそうそう付かないってことだ。ブロガー同士でブックマークをつけるときは十中八九、「つけたんだからそっちもつけろよ」という意思表示なんだと思う。意味のないスターをばらまくだけの連中よりはひと手間かかってるんだろうけど、通知に喜んだ分落ち込む。
読まれないお前のブログの内容が悪いって?それもあるんだと思うけど、ブロガーでブックマークつけてくる連中はだいたい読もうともしないから、そんな連中気にしたってしょうがない。

 まずは読まれなけば、それが良いかどうかの判定すらなされないは事実であるし、あまりに読まれないまま埋もれていく文章が多いのは残念だとも思うのだけど、一番の読者は自分自身であるし、それでも何かを期待してくれる人々を大切にしたい。だから、せめて「詩人とそば屋の純潔」を守ろうとする「試み」ぐらいはしてもよいんじゃないのかな。

我が心はICにあらず (小田嶋隆全集 第1巻)

我が心はICにあらず (小田嶋隆全集 第1巻)