読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

他人の顔色を伺うネット社会では「無敵の人」になれないじゃん

photo by Helga Weber

匿名ネット社会でぐらい「無敵の人」になりたい

 Google Adsenseの規約がどうだとか、他のブロガーに嫌われるからといった建前のエスケープ文を書きながら「本当に書きたいことは隠しているけど大人の事情を察せ」とアピールする記事に当たると、なんともいえない気分になる。犯罪行為とか嫌がらせとかはダメだけど、匿名のネット社会でまで他人の顔色を伺いながら本音を隠して、だけど隠しきるわけでもないアピールって窮屈すぎてツライ。

逮捕されると、職を失ったり、社会的信用が下がったりします。元々、無職で社会的信用が皆無の人にとっては逮捕というのは、なんのリスクにもならないのですね。

無敵の人の増加。 : ひろゆき@オープンSNS

 本来の「無敵の人」は逮捕を契機にした職や社会的信用の低下が特にダメージにならない人のことを指しているけど、ネット社会では炎上に伴う広告収入や威信値の低下が特にダメージにならない人があたる。多少なりとも広告収入を得たり、セルフブランディングや飲み友達なんかに繋がっている部分もあるので、全くダメージがないわけじゃないけど、「仕事」に値するようなプラスはあんまりない。そんなことよりも、思いつきを適当に書きとどめておける楽しさが勝る。普段から他人の顔色を伺っているからこそ。

褒め合う雰囲気が苦手な自分と褒めを惜しむべきでないという規範

ここ1年ぐらいのインターネット界隈において「ポジティブ五人組制度」とでもいうべきものができているように感じる。つまり五人程度のプレイヤー同士で連帯責任・相互監察・相互扶助をおこなえば相応のシェアをされたり、イベントの開催をしやすくなるから、何があっても褒め合おうみたいな強迫観念があるんじゃないかということだ。

 僕自身は自身の情報量を増やすタイプの批判が好きで、褒められるのも罵倒されるのもイシューに対する情報量が増えないので無駄に感じてしまう。その一方で自分のポジショニングを明らかにするためにも、相手の気分のためにも、他人をちゃんと褒めるのも大切だと感じていて、自分ごときの承認をケチっても仕方がない。「それよいね」っていうフィードバックを伝えないで、自分にとってよいと思うものが偶然的に溢れるなんてのは世界や他人に期待しすぎだ。

「大切な場所」は人によって異なる

特定されるような情報を書いたり、倫理的にまずい事や犯罪行為の示唆をしない限りは一定の範囲でリセット可能であるという点において、例えば職場で政治的な話をするよりもよほど「安全」であろう。

それでいて異論・反論などは出てきて痛めつけられる可能性が高いという点において「痛い」可能性は高い。それでも「痛い目」に合う事自体は、社会において偏見に基づいた差別行動をしたり、思い込みの成功法則を実践して致命的な失敗する可能性を減らしてくれる側面もあるので、悪いばかりではない。

 この意見もこの意見で乱暴で、匿名のインターネットでなら安全に痛い失敗をしてもよいという論旨は「匿名のインターネットなんてどうでもよい」という大前提が共有されていないと成り立たない。ブログやミニ四駆は大切でないから破滅的になれるが、破滅的になれる限りにおいては大切である - 太陽がまぶしかったから。他人にとって大切な場所であれば、雑に扱うべきではないのだとは思う。

 現在はすぐにリアルへのダイレクトアタックに繋がるし、露悪的になってしまうのも本音ではないので、そう簡単にはいかないのだけど、匿名ネット社会でぐらい各々が「無敵の人」として、好き勝手な本音が飛び交う場であって欲しいと願うのは、もはやノスタルジーなのかなぁ。

顔のない裸体たち (新潮文庫)

顔のない裸体たち (新潮文庫)