太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

ブログが息苦しくなったのは「物理的に刺してくる」隙と手段ができてしまったから

photo by flyone

ネットが息苦しくなった問題

 読みました〜。ネットが息苦しくなった問題について、自分の中では増田(コンビニ店長?)の内容に一番シンパシーを感じました。正直なところ、ネット上でいくら文句や悪口を言われてもネット上で終わっている限りは何も痛くないんですよね。

思うに、「炎上したり批判されるのが怖いし、そんなことされたらネット上で文章表現するの続けられない」っていう人は、そうやって批判してくる人のことを「大事に思いすぎ」なんじゃないでしょうか?

 熱心に批判とか罵倒をして来る人は「14歳のヤンデレ少女」だと思うと心が安らかになります。僕なんかの事を熱心に注目してくれる上に、物理的に刺してこないヤンデレ少女はまったく最高だぜとしか言いようがありません。

 なので今後ともどんどん適当な事を書いていきたいと思うのですが、僕を封じるものがあるとすれば「リアルへの攻撃」に関しての事であると感じています。匿名を前提にして書いているので、職場凸や家凸をされたらキツイですし、本当に物理的に刺されるのは勘弁です。

リアルアタックへの恐怖

もっともこんなことには解決策はある。リアルの情報をいっさい封じればいい。自分が何歳で、どこに住んでおり、どんな仕事をしているのか、そういう情報をカケラも出さなければ、たとえば「あの人は女の子の放尿シーンのすばらしさについてのみ語る人だ」という認識ができる。

 当初はこれを徹底していましたし、未だにほぼ創作の日記を書いているのですが、ソーシャルメディア上の発言を突き合わせたり、持ち物晒しの内容などを利用すれば特定は容易にできてしまうでしょう。オフ会で自己紹介をしたり、迂闊な話をする機会もそれなりにありますし、仕事関係であればハンドルネームだけのやりとりで済む事はまずありません。

 僕が参加する予定のイベントに紛れ込んできて害意を為す事を匂わされた事すらあったのですが、これを実際にやられたら防ぐのはかなり困難です。昨今の特定祭りや情報開示請求なども加味すると、もはや「動機」の問題だけで実生活に影響がでるような攻撃ができてしまうのが実情なのです。つまり「物理的に刺してくる」がその気になれば出来るようになってしまったのですね。

「リアルへのコンバージョン」のジレンマ

 だけど、僕自身は結局のところで、この名義での仕事を請け負ったり、オフ会に出たりする事を降りたくはありません。はてな婚活すら視野にいれるのであれば、大阪に行った事を暴露されたりするのは仕方がない事なのかもしれないし、別にそれ自体は何も問題ありません。そもそも大阪に行ったから何なんだという話です。

 それでも、ネット上の誤情報や炎上ごときで仕事がポシャったり、リアルの人間関係にすら悪影響が出る事について避けたいところでもあります。なので、そもそも迂闊な事をなるべく避けるのは前提としても、「ネットの落書きと僕のどちらを信頼できる?」と悠然と構えていられる関係作りが必要であると考えています。なかなか難しいのだけど。

ネットとリアルの関係性のちょうど良い塩梅

 炎上商法やネガティブな面を含む自意識語りを長期的に続けられる人は、以下のパターンにある事が多いです。

  • ネットとリアルが一切紐付いていない
  • ネットがリアルそのものなのでネット上のキャラだけを気にしていればよい
  • リアルが充実しているのでネットの影響を任意に切り離せる

 これはインターネットを使って小銭を稼ごうとか、人脈を広げようみたいな道筋とはコンフリクトします。その事についてはFacebook化して息苦しくなったという指摘があてはまりますね。

その余裕がなくて、「ネットで儲けたい」「ネットからお金が入ってこないと困る」という空気を帯びたブロガーが増えたのは通信が早くなってからのお話。 小島アジコさんが言う「ネットが窮屈になった」はこの「儲けたい・お金のためにやる人が出てきたこと」が大きな原因ではないだろうか?

 とはいえ、パソコン通信やメーリングリストの時代にも、直接的な集金装置はなかったものの、人脈だったり胡散臭いビジネスの話は山ほどあったし、会社名や本名を明らかにして会話していたので、Facebookはその頃の揺り戻しであるとも感じています。それでも、問題があった時に会社に電話をかけてしまうような人の側がバカにされてきたし、そういう発想もありませんでした。対戦格闘ゲームをしている時に、リアルファイトに持ち込むようなものです。

動機の時代

 それが現代のネット社会においては簡単に通報や電凸をしたり、虚報を流す人がいるし、その事自体が重大に受け止められたり、同調して叩かれる風潮すらあります。どれだけ理不尽な申し立てであっても、ほとんどの人にとっては詳細を理解するほどの興味がない事なので「喧嘩両成敗」「そっちのが面白い方から信じる」といった感想のまま風化していくため、確実にダメージを与えられてしまうのが実際です。

 現代は「動機の時代」なのだと感じています。既に効率的な「やり方」についてはコモディティ化しており、捨て身になるほどの動機を抱かれたら、それを回避するのは非常に困難です。なので、そのような動機を抱かせないようにしていく配慮がどうしても必要になってきてしまうところがあります。例えば「正義」を刺激しないだとか、「自分の属性が攻撃されている」と思わせないといったことです。

ドメスティック・モヒカン宣言

 その一方で、批判や身も蓋もない事を含めて正直に話し合いたいという欲求もあるのですが、それが可能なのは一定の合意がなされた「アジール」しかないのだろうとも思っています。そもそも「アジール」とは歴史的に統治権力が及ばない地域の事であり、例えば宗教的聖地の要素を持つ場所については統治権力による法治よりも、その宗教独自の倫理が優先される事がしばしばありました。

 モヒカン族の「アジール」を成立させるには、互いにいくつかのイニシエーションがあって、そのうえではじめて土俵に上がる事ができるのではないでしょうか。「ドメスティック・モヒカン」という事ですね。逆に言えば、そうでない人々に対してまで批判するのは時間の無駄だと考えています。「個人的な話」は好きにすればよいと思いますが。

 内田樹は「議論を行う前には、先だって議論のルールがすりあっている必要がある」という事を言っている。つまり、「矛盾した事を言ったら負け」「人格批判は別物」だとかそういう価値観とルールが暗黙的であれ、明示的にあれ、すりあっているからこそ議論が成立するわけである。

 これを突き詰めると、例えばミステリー小説が成り立つのにはそもそも「ここは地球と同じ物理法則で、殺人は悪であり、その動機やトリックを見つける必要がある」といった価値観とルールのすり合わせが先立って行われているといえる。それを意識的に崩すような試みは何度も行われているが、それはその暗黙的なルールを際立たせるためでもある。ここで重要なのは、「私たち」は議論の勝ち負けに価値があり、そのルールが決まっている惑星にいるのかということである。

 ここで重要なのは、「物理的に刺してくる」人をアジールに入れないこと、合意の上で土俵に上がって、よりよい結論に向かうために殴りあっていることを互いに意識するということです。過去の「はてな村」ではこのようなアジールが暗黙のものとして享受できていたと思うのですが、残念ながら過去の話ですので、現代において心地よく殴りあえるアジールをどうやって実現していくのかについて考えたいです。

アジール―その歴史と諸形態

アジール―その歴史と諸形態

関連記事